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富岡鉄斎書 ・ 役尊渡海の図 |
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修験道の開祖・役行者は、飛鳥時代・舒明天皇6年(634)、現在の奈良県御所市茅原で「賀茂役君(かものえのきみ)」を父として誕生し、名は役小角(えんのおずぬ)、幼少より非凡な才能を発揮し、仏道に帰依していたと伝えられています。
成長するにつれ、葛城山や金剛山などの山々に魅せられ山中を出入りすることが多くなり、山中修行の始まりとなっていきます。
時はまさに大化の改新、壬申の乱など政権抗争の激しい時代で世の中は乱れきっており、人々も大変苦しんでいました。
役小角は、末法悪世に苦しむ人々を救うためにと、金峯山上で一千日の苦行を成し、衆生を救うための力強い神を求め一心に祈り続けました。
すると、弁財天や地蔵菩薩などが現れて来ましたが、あまりにも柔和なお姿なので、このような乱世にはふさわしくないと思い、さらに祈り続けていると、次には釈迦如来、千手観音、弥勒菩薩、が現れましたが、「もっと強いお姿を」と念じていると、すさましいばかりの雷鳴と共に、青黒忿怒(しょうこく ふんぬ )の相の蔵王権現が火炎を背に出現したのです。
これこそまさに悪魔降伏にふさわしい神と感じ、そばにあった桜の木にお姿を刻み金峯山の山上と山下の蔵王堂におまつりしました。
蔵王権現を本尊にいただい役行者は、山によって修行する、実修実験の修験の道を整えながら、多くの人々を導き、国中を巡り、
北は東北の羽黒山から、立山、富士、御嶽など、また山陰の大山、四国の石槌山、西は九州の英彦山、霧島にいたるまで、日本の主な山々を開き、修験道の道場としていったのです。
そして、大宝元年(701)6月7日天上ヶ岳にて、弟子に
本覚円融(ほんかくえんゆう)の月は 西域の雲に隠るるといえども
方便応化(ほうべんおうか)の影は なお東海の水にあり
と言い残し、母を鉄鉢に乗せて昇天されたと伝えられております。
役小角は、平安時代には行者の尊称を送られ、以来役行者と呼ばれるようになり、 さらに、千百年忌にあたる寛政十一年(1799)、光格天皇よりその功績を称えられ、神変大菩薩(じんべんだいぼさつ)の諡号(しごう)を賜っております。
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金剛蔵王大権現
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